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ネタバレ あらすじ 第5 回「松陰の遺言」大河ドラマ 八重の桜 [ドラマネタバレ 感想 八重の桜 大河ドラマ]

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ネタバレ あらすじ 第5 回 大河ドラマ 八重の桜

ネタバレ あらすじ 第5 回「松陰の遺言」大河ドラマ 八重の桜 


第4回の撮影では、あの有名な
松の廊下が写っておりました。

なんとも重厚な雰囲気と不穏な
雰囲気がないまぜになっており、
見事なカメラワークだったように
思いました。

しかも、バックに流れていた音楽も、
なかなかにドラマティックな効果を
作り出していたように感じました。




時は安政5年。井伊直弼が推していた
紀州の慶福が将軍の後継に決まるとほどなく、
一橋派の処分がくだされました。

そのきっかけになったのは、
直弼の違勅調印(天皇の勅許を絵図して
外国と条約を締結したこと)に異を唱えるために、
御三家の藩主たちがお仕掛け登城したことでした。

言いがかりも良いところですが、
直弼には直弼の覚悟がありました。
彼も、命を捨てる覚悟でことにあたっておりました。

歴史家の徳富蘇峰の言葉を借りれば、
井伊直弼は茶をたて、和歌を読む以外に
これといって才のない人物であったとか。

そういえば、若かりし頃の直弼のあだ名
茶カポン」でした。

あの安政の大獄で知られる、血なまぐさい直弼
イメージとはあまりにかけ離れているではありませんか。

ところで、安政の大獄で捉えられた吉田松陰は
江戸に送られ、獄中にありました。

これほどの人材を罪人にするなんて、
まったく幕府の目は節穴です。

安政6年、日本中に攘夷の嵐
吹き荒れはじめていました。

日本にやってきていた外国人たちが、
次々に攘夷派の浪士たちに切られていたのです。
攘夷を本気で考えていたのですから無謀です。

こんな時、吉田松陰は梅田雲浜と通じていたとの
言いがかりを付けられます。その罪を問われ、
大いなる罰を受けることになりました。

松陰は、取り調べにて曰く、

「わたくしは、老中真鍋どのを襲い、
幕府の失政をお諌めする心づもりをしておりました。

外国の力に屈して国を開いたのは、
国土を異国に破られたも同然であります。

こげな折に、国を憂うものを厳しく弾圧していては
人身は離反するばかり。

諫言致して、それでもお聞き届け頂けない時には、
刺し違える覚悟でございました」

この後まもなく、松陰は次の辞世の句を残し、
刑死します。安政6年10月27日のことです。

身はたとえ 武蔵の野辺に朽ちぬとも 
とどめおかまし やまとだましい

勝海舟曰く。

「何も殺すことはねえんだ」

佐久間象山曰く。

「なぜことを急いだ!死地に赴く時ではない」

さて、山本家に話を戻しましょう。
山本覚馬の嫁のうらは、

とてもよく気のつく働き者の嫁でした。
そのうらに、初めての子供が授かりました。

しかし、そのような幸せな折に、
覚馬蘭学かぶれだとの言いがかりをつけて、
攘夷を唱える不貞なものが山本家に乗り込み、
覚馬に切りつけます。

その覚馬を助けようとしたうらは、
その時にこけたのがもとで、せっかく授かった
子供を流産してしまいました。

その翌年、安政7年、勝海舟は咸臨丸に乗り、
アメリカに向かいました。

一通の手紙を覚馬に残してメリケンに
向かったのです。

その手紙には、松陰の最後の様子が
かかれていました。

さらにその翌年の安政7年3月3日のことです。

その日の江戸には、季節はずれの雪が
降っていました。

井伊直弼はいつものように僅かな手のものに
守られながら、登城しておりました。
そして、桜田門の前で、水戸の脱藩浪士らに
暗殺されました。

桜田門外の変です。

この後すぐ、水戸藩を討伐するという話が
幕府内でおこりますが、この幕府内での評定にて、
松平容保が一言。

「お待ちくだされ。それがしは水戸様を
討ってはならぬと存じます。井伊大老を
討ったものは脱藩せし者ども。
しかるに、ここで水戸を討伐しては、筋が通りませぬ!」



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