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八重の桜 あらすじ NHK大河ドラマ こぼれ話 時代が動きだした [歴史裏話 八重の桜 大河ドラマ]

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八重の桜 あらすじ こぼれ話 NHK大河ドラマ

八重の桜 あらすじ こぼれ話


さて、会津藩の頑固さはもう十分に
理解していただけたと思います。

本当に頑固でなかなか変わろうとしない。
なかなか新しいものを、取り入れようとしない
というのが、会津藩です。


安政三年頃といえば、西国の諸国は、
すでに軍政・兵制改革をどんどん進めていっていました。

佐賀藩、薩摩藩などはどんどん進んでいました。

またしても少し脱線してしまいますが、
嘉永6年に黒船が浦賀にやってきたことが
きっかけになって、日本が開国へ、
そして倒幕へと大きく
舵を切っていくことになるのです。

その年よりもさらに、10年も前から
オランダ・ポルトガル以外の異国の船
日本に頻繁にやってきていたのです。

たとえばロシアの船はペリーよりも
ずっと以前に薩摩沖にきていました。

島津斉彬(なりあきら)が兵制改革に
力をいれるようになったのには、
このような背景があったからなのです。

薩摩藩は、当時500万両という
借財がありましたが、これは薩摩藩家老の
調所広郷(ずしょひろさと)が幕府のご禁制
破って行った異国との交易で得た、
収益のおかげで解決しただけでなく、
さらには藩の財政を大いに富ましました。

この富のおかげで、斉彬の養女篤姫が
13代将軍家定の正室となる時の
莫大な費用も賄えましたし、
京都の公家たちへの働きかけにも
大いに役に立ったようです。

後の薩英戦争時に使用した鉄砲
大砲などは、すべてこの豊かな富が
支えていたのです。

さらに、あの生麦事件にも関わるのですが、
斉彬の後の藩主島津久光(斉彬の腹違いの弟)が
兵を挙げて入京することができたのも、
実はその背景に、実利主義的な考え方
蘭癖(らんぺき)とあだ名されていた
島津斉彬の先見の明があったからでした。

このような進んだ考えを取り入れている、
世間の情勢にまったく疎い会津の人たちに
向かって、覚馬は蘭学書を開設して
西洋砲術を指南し、蘭学や語学を教え
さらに兵制改革を、推し進めようとしていたのです。

まさに逆風に向かって、漕ぎ出した小舟のようです。
しかし、この小舟には強い助っ人がいました。

八重と川崎庄之助です。




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